浄土宗の宗旨
名称 | 浄土宗 |
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宗紋 | 月影杏葉(つきかげぎょよう) |
宗紋 | |
宗歌 | 「月かげ」 月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の 心にぞすむ |
宗祖 | 法然上人(ほうねんじょうにん)(西暦1133~1212)「幼名…勢至丸」 大師号……圓光・東漸・慧成・弘覚・慈教・明照・和順・法爾 「法然房源空上人・吉水上人・黒谷上人他数多の尊称あり」 |
開宗 | 平安時代末期 承安5年3月14日 宗祖43歳(西暦1175) |
ご本尊 | 阿弥陀如来 |
称名 | 南無阿弥陀仏 |
教え | 阿弥陀仏のご本願を深く信じ、ただひたすら南無阿弥陀仏と口にお念仏を称えることで、西方極楽浄土に生まれることを願うみ考えです。 |
本山 | 総本山 知恩院 〒605-0062 京都市東山区林下町400番地 大本山 本山 |
浄土宗について
浄土宗檀信徒信条
一、私たちは、お釈迦(しゃか)さまが本懐(ほんかい)の教えとして説かれた、阿弥陀(あみだ)さまのお救いを信じ、心のよりどころとしてお念仏(ねんぶつ)の道を歩み、感謝と奉仕につとめましょう。
一、私たちは、宗祖(しゅうそ)法然上人(ほうねんしょうにん)のみ教えをいただいて、阿弥陀さまの名を称(とな)え、誠実と反省につとめましょう。
一、私たちは、お念仏の輪をひろげ、互いに助け合い、社会の浄化と、平和と福祉につとめましょう。
浄土宗のおこり
法然上人四十三歳。ここにお釈迦さまの膨大なみ教えを、称名(しょうみょう)のお念仏行一つに修められました。阿弥陀仏のご本願(ほんがん)によって極楽浄土に往生する道です。
我々凡人には厳しい修行も、むずかしい学問、戒律もおぼつかない。こんな私が、阿弥陀仏のみ名を称え、お念仏することによって浄土に生まれ、そこで仏となるみ教えです。それはどんなに愚かな罪深い人であろうとも「念仏の衆生を必らず浄土に救い取る」という阿弥陀仏の『ご本願』によるからです。
常念寺の歴史
浄念寺から常念寺へ
史料上に見る寺名変更の可能性
「常念寺」というお寺の名称が史料上に初めて登場するのは、管見の限り、延岡藩領内から追放されていた清高島の惣兵衛が3年振りに帰参したことを記す、「諸御用」宝永2年(1705)11月14日条の記述になります。
しかし、「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」にも見られる「浄念寺」との表記であれば、「地方・山方・口屋」元禄6年(1693)9月28日条まで遡ることができます。また、後世の編纂物にはなりますが、寛文年間(1661~1673)の分限帳をもとに記したとする延岡藩主であった有馬氏がまとめた藩史『国乗遺聞』においても「浄念寺」の記述を確認することができます。こうした「浄念寺」という表記については、延岡藩主が三浦氏から牧野氏へと変わる際に作成された引継文書と考えられる「延岡御家中分限帳」が最後となります。
延享4年(1747)9月に、当時の住職である英誉がまとめ、藩に提出した常念寺の由緒書においても「浄念寺」に関する記述はなく、「常念寺」が元は「浄念寺」という名称であったかどうかについては、今のところ推測の域を出ませんが、元禄時代までは「浄念寺」と言う表記しかないことを踏まえると、理由は定かではありませんが、三浦氏が延岡藩主であった宝永年間(1704~1711)に寺名の改称が行われた可能性が高いと考えられます。
延岡藩主と常念寺
延岡藩の主要寺院・常念寺
延岡藩主であった有馬氏がまとめた藩史『国乗遺聞』の「日向国延岡御寄附地ノ事」という項目には、延享4年(1747)9月に、当時の住職である英誉がまとめ、藩に提出した常念寺の由緒書にも記されているように、延岡藩が「浄念寺」に対し、三人扶持を与えていたことが記されており、こうした記述からは、延岡藩が常念寺を領内における主要寺院として取り扱っていた様子を窺うことができます。
この扶持米については、有馬氏以降、支給されることはなくなりますが、給地として「壱石四斗九升七合三勺八才」が設定され、延岡藩主が三浦氏の時代には、専念寺や三福寺、台雲寺、誓敬寺などの寺院と共に、藩主の居館がおかれていた延岡城西之丸(現在の内藤記念館)において、藩主に拝謁していたことを三浦家文書や九津見家文書から確認することができます。
こうした藩主との拝謁については、その後の内藤氏の時代にも引き継がれ、台雲寺や専念寺、本東寺、本誓寺、願城寺などの寺院と共に、鶴之間西側に列座して、正月5日に年始の挨拶を行うように定められていたことを、内藤家文書「諸役所年中行事 町方・寺社方・宗門方」から確認することができます。
内藤政和と常念寺
菩提寺としての敬徳院・常念寺
延享4年(1747)9月に、当時の住職である英誉がまとめ、藩に提出した常念寺の由緒書に、延岡藩主・有馬康純より自筆の山号「清田山」の額を拝領したと記されているように、延岡藩内の主要寺院として取り扱われていた常念寺が、「御菩提所同様」として、より一層重要な寺院として取り扱われるようになるのは、文化4年(1807)9月以降になります。
延岡藩領内の毎日の出来事を記した内藤家文書「万覚書」文化4年9月17日条によると、生前の崇敬の念によるものと推測されますが、文化3年10月17日に江戸で亡くなった内藤家13代当主・政和(法号:敬徳院殿備州刺史従五位下仁譽晃玉倚山大居士)のために、政和の実父である11代当主・政脩が、常念寺に「常念仏」を建立し、政和の位牌を預けることを決め、さらに、その供養を執り行うための費用として、藩に銀12貫目(=金200両)を預け、「月壱歩半」(=金3両)の利息を常念寺に月々渡すようにしたことを確認することができます。また同月20日条からは、「常燈」の建立も命じられ、その建立費用と維持費として、銀1貫目が先の銀12貫目と同様の利息で藩に預けられると共に、仏具などの寄付も行われたことを見ることができます。
これにより、常念寺の年始の挨拶は延岡城西之丸の「菊之間」で行うように変更されると共に、参勤交代により藩主が延岡に戻ってきた際や、藩主の家督相続が行われた際には登城して挨拶すること、また延岡城下への出入口の一つである豊後口の出入が自由になることや、桃燈に紋を付けることが許可されるなど、「御菩提所」と同じ様に、様々な特権が認められる寺院となります。
また、寛政11年(1799)から常念寺の住職を務め、この政和の菩提を弔う常念仏御回向などを執行した想誉霊察が藩に提出した「常念寺書上 浄土宗」からは、文化5年10月には、政和の位牌を安置している間は、寺の院号として、政和の法号でもある「敬徳院」を延岡藩領内で名乗ることが許されたことや、文化10年6月4日に本堂が再興され、内藤家の家紋である下がり藤紋の使用が許可されたこと、そして、この本堂の再興に伴い、政脩から金100両の寄付があったことなどを窺い知ることができます。
執筆:延岡市内藤記念館 専門学芸員 増田 豪