常念寺の五輪塔
常念寺に眠る鷹屋市之丞純昌
常念寺の五輪塔にその名を刻む「髙屋市之亟」は、延岡藩主有馬氏の初代・直純の二男・元純(初の名前は純政)が3千石を与えられて分家する際に付けられた家臣の一人である鷹屋市之丞(市之允)純昌という人物と考えられます。この鷹屋市之丞純昌は、諱である「純」の一字を元純より賜り、純昌という諱を名乗るようになったとされ、主君である元純が大病を患うと、元純の病気を自らが引き受けるべく命替えを祈願し、正保元年(1644)正月2日に自害したと、有馬氏の藩史となる『国乗遺聞』や『藤原有馬世譜』に記されています。
鷹屋市之丞純昌の生涯については不明な点も多いのですが、『国乗遺聞』や『藤原有馬世譜』によると、上代傳斎(初は傳右衛門)の二男として誕生し、最初は生駒家の養子として、虎之助や六左衛門と名乗り、知行100石を与えられ元純の家臣となっていたところ、姉聟の鷹屋四郎兵衛信正が、寛永18年(1641)4月25日に直純が死去したことに伴い、5月7日に殉死したため、その名跡を継いで鷹屋姓となり、四郎兵衛信正の知行を加えた400石を与えられ、鷹屋市之丞と名乗るようになったとされています。
『国乗遺聞』には、健康を取り戻した元純が、実父である上代傳斎に対し、父母としての心痛を思いやると共に、市之丞の忠義が天下に知れ渡っていると記した書簡が集録されており、この事件が有馬家中において、後世まで伝承されていたことが窺えます。
寛永廿一年四月四日
(梵字)孝誉賢忠信士
髙屋市之亟 生年廿七歳
執筆:延岡市内藤記念館 専門学芸員 増田 豪